あなたが構築している現状の人間関係があなたの心を支配する

人間の心を左右する重要な考え方の一つに立ち位置があると思うのですよ。
ようは人間関係を一歩引いた視点で俯瞰した時に自分がどういう立ち位置にいるのかを知る事。
今の自分の心は実は「この立ち位置によって作られている物」という捉え方が出来ると思っているのですよ。
例えば対人関係療法という物があります。

第1層⇒配偶者・恋人・親・親友など
第2層⇒友人・親友など
第3層⇒職業上の人間関係など

上記は第1層が最も重要度が高い人間関係(わかりあいたい人たち)。
それより低い下層に行くほどわかりあう必要が薄くなっていくという事になる。
果たして対人関係療法が人に与える影響がどうなっているのかをパーソナリティ別に考察をしてみると、面白いと思う。

今回はエニアグラムのフレームワークを借りて考えてみる。
まぁ、とりあえず、自分にとって考察がしやすいエニアグラムタイプだけ取り上げてみるけど要望があれば他のエニアグラムタイプの考察も考えてみます。

例えばエニアグラムのタイプ3(成功を追い求める)は下位層に対して意識配分を重要視している人という見方ができる。
エニアグラムタイプ3と言えば不健全化すると自己愛性パーソナリティ障害化するタイプだが、これは第3層以下ばかり気にかけて、第1層が上手く行っていないか、空洞である為だと思われる。
よって自己愛性パーソナリティ障害に対する一般的に言われる治療目標である、「等身大の自己を受け入れる」とは第1層の対人関係を重要視し、互いの等身大の姿を分かり合えている人間関係を構築する所にあると考える。
家庭に入るとモラハラ化してしまう、タイプ3にとって他人にとって役に立たなくても、ただ、そこにお互いにいるだけで安心しあえる親密な人間関係を構築する事が第一目標になると思われる。

エニアグラムタイプ2(人の役に立つことを求める人)
彼女たちのキーワードにメサイアコンプレックスという物がある。
ようは誰かの役に立つふりをしてターゲット(第一層候補)をマウンティングして共依存状態を作り出し、「常に誰かを助けられる状態」を強制的に作り出し、第三層などの低層から賞賛を欲しがる人たちである。
ある意味エニアグラムタイプ3と構造が非常によく似ている。
結局、彼女たちにとって本質的な課題はエニアグラムタイプ3となんら変わらないと思われる。
己の承認欲求の為にターゲットをマウンティングするなと。
しかも自分の問題を直視・自覚する事が極めて苦手という意味でタイプ3とタイプ2は非常によく似ている。
まずはターゲットにしている人間と真の人間関係が築けるようになる事が重要なのではと思ってしまう。

エニアグラムタイプ5(世界理解を追い求める)は全層に対して分かり合う必要性を感じていないという見方ができる。
対人関係や集団から距離を取り、性質を理解する事で立ち回りをコントロールしていこうという姿勢だ。
一般的に自閉的な性質を持ってしまう彼ら。
第1層の人間関係、例えば家族がいたとしても心理的な距離を近づけようとせず外から観察する立場をとっているはず。
彼らにして見れば、第一層の人間も第三層の人間も同一的な存在なので、心理的な距離感も同一的な物として認識する。
だから、空気を読む事や対人的な距離を取る事を苦手とするわけ。

エニアグラムタイプ9(調和を求める)は実はタイプ5と近く、全層と距離を置こうとしているように思う。
何故ならば、人間関係の距離感が近いと争いに巻き込まれてしまうからだ。
タイプ5の場合距離を取ったうえで人間や集団を上から目線で解析しようとする。
タイプ9の場合下から目線で人間や集団を見ていると思われる。
タイプ5の場合は自然を観察した上で人為的なコントロールを追い求めるのに対して、タイプ9は自然を観察した上で、その流れに乗る事を志向する。
実はタイプ9とタイプ5はかなり近い対人関係の位置関係を持ちながらも現れる性質がある意味真逆。
第一層の対人関係をそれほど重視していなくても心の健康を保てる第一モデルと思われる。
(ただ、タイプ9の最大の弱点は悪い流れに乗っていて、小さい問題を放置したうえで問題を大きくし、問題がどうにもならなくなるまで流れを断ち切れずに自滅をしてしまうところだ。一概にタイプ9よりもタイプ5のほうが生きやすいとは思わない)

エニアグラムタイプ6(安心を求める人)
タイプ6は一般的日本人において、最も数が多いとされる。
よって、対人関係療法が最も機能する心理モデルはこの性格構造にあると考える。
まさに、タイプ6は相手が信頼できるかどうかで選別をして居場所を確保しようとする人たちだ。
第一層が安定すれば第三層の人間関係が安定するという理論は彼らの為にあると言ってもいいと思う。
自分の防衛の仕方がタイプ6的だと思っていたら対人関係療法的な思考はかなり有効なのではないだろうか?

対人関係療法には向き不向きがあると言われている。
統合失調症などの強迫性障害(タイプ1?)・自閉スペクトラム症・アスペルガー症候群(タイプ5?)・発達障害・ADHD(タイプ7?)・精神病性障害(エニアグラム的に全タイプの統合失調症の人を知っているので、これとエニアグラムの関係性に関しては考察不足)などには向いていないらしい。
何故、そうなのか?というのを上記の視点から見てみるとなかなか面白い考察が得られるとともに、自分がどのように対人関係の位置取りをしたうえでどのように考えれば幸せになれるのかを考えるヒントになるのではないでしょうか?

【ダニング=クルーガー効果批判】メタ認知は人を不幸にする

結論から言えば、内向型の方がメタ認知を得意としているが外向型の方が主観的幸福度が高い。

だから、自分を客観視するという行為は自分を不幸にする要素を多分に含んでいるという事が言いたい。

長年メタ認知をし続けてきた管理人の一つの結論。

幸福になる為にはメタ認知を辞めるしかない。

確かにメタ認知ができれば、外向型の人間には持ちえない強力な武器が手に入る事は間違いない。

目標達成能力や何かを極める能力の為にはメタ認知が絶大な力を発揮する事は認めざる得ない。

管理人もリアルで結構ないろいろ目標達成をしてきた。

が、内向傾向も同時に強化され、神経症傾向に拍車がかかった。

あまりにも、自分を客観視する事を世間は神格化しすぎているように思う。

メタ認知を辞めなければ外向型のパーソナリティ構造に近づけないという絶対的な現実があり、極める能力こそ内向型に劣るものの、総合的には外向型の方が有利なこの世界で自分を客観視する事を要求してくる事に耳をかしすぎてしまうと自分で自分の首を絞める事になってしまう。

ここで考えたいのは「ダニング=クルーガー効果」と呼ばれている物である。

自信のある人ほどメタ認知ができずに能力が低く、自信の無い人ほどメタ認知ができる為に能力が高くなるとの理論。

外向型の方が総じて主観的幸福度が高く、メタ認知能力は内向型に比べて劣るわけだから、平均的な能力は「内向型>外向型」とならなければおかしいハズ。

でも実際にはそんな事は無く、極める能力が内向型に比べて劣っているだけで、総合力は外向型の方が優れている。

「ダニング=クルーガー効果」はそういう意味で能力に対する概念の切り取り方が一面的だと言わざるえない。

 

【アドラー】人に迷惑をかけてはいけないのか?怒りは悪なのか?【課題の分離】

一般的に自己中心的である事は悪い事だとされる。

人に迷惑をかけてはいけないだとか。

もっともらしい綺麗な言葉を使って、至る所で「偽善」が叫ばれている。

「戦争反対」「人にやさしくするべき」「思いやり」

その本質を辿れば、偽善をかざした対人操作が目的であったりする。

本質的にどの人間も究極の目標は「生存」なのである。

どの言動も。

ネット上に溢れる、あらゆる言葉も。

大本を辿って行けば「自己の生存」という極めて自己中心的な本質に辿り着く。

生きていれば、様々な人間がその本質を覆いかぶした「綺麗事」「プロパガンダ」をもっともらしく語りかけてくる。

所詮、その綺麗な言葉を言った張本人も自身の利害の本質に関わる部分に触れられれば「自己の生存」の為の醜い自己中心的な実態を露呈しなければならなくなるのである。

どんな人間も例外は無いと思う。

それが例えガンジーだろうと。

本質的に人間関係はここの利害関係のぶつかりあいにある。

綺麗な言葉にそそのかされて、その綺麗な言葉を真に受けた瞬間に「相手の生存の為にあなたが犠牲になった」のである。

あなたは、この世に生物として生まれてきたからには、生存を第一目標にしなければならない。

対人関係で上手くやらなければならない。

嫌われてはならない。

上記それその物が目標化された時、あなたは完全に外界に心を支配される事になる。

あくまで、上記は「生存の為の手段であって目的ではない」のである。

その前提を覆す何かを自分の中で受け入れてしまった時に、あなたは心の病の世界へと近づいてしまう事になる。

思いやりも、博愛もあなたが選んだ「生存戦略」なのである。

「人に迷惑をかけてはいけない」とプレッシャーをかけてくるのはあなたの生存戦略ではなく、他者の生存の為だ。

「人に迷惑をかけない」事があなたの生存になってプラスになるのならば、それを手段として選択すればいいだけの事である。

「人に迷惑をかけない」事そのものを目的化したら、それは泥沼にしかならない。

心が混乱した時こそ、この大前提に戻る事が自分を救う事になる。

あらゆる膨大な意見や情報が世の中には存在する。

その表面上の言葉じりしか捉えられなければ、情報を発信した人間の餌食になるだけだ。

アドラー心理学に「課題の分離」という考え方がある。

人間一人一人人生の課題を抱えている。

自分の課題に他者を侵略させてはならないし、相手の課題に侵略してはならない。

それが人間関係の悩みを解決するコツであると。

基本的には私もこの考え方は賛成だ。

賛成だが、違和感はある。

それが上記の内容と直結している。

アドラー心理学的には課題の分離の視点から他人に迷惑をかけてはならんという事になる。

そりゃ、無理よねっていう。

どの人間も自身の目的が生存である以上、他者をコントロールする事は重要だからだ。

コントロールされた側は心を病んでしまうが、コントロールを仕掛けた側はそれが有効な生存戦略の一つだと知っているのである。

怒りが良くないという言説に対してもこの視点から違和感を感じる。

怒りとコントロールは密接な関係があると思う。

怒りをぶつけられた側が「大人の対応」をし続ければ、相手の侵略を許してしまうという事になる。

対人関係において怒りが介在した瞬間に、それは利害がぶつかりあっているわけだから。

利害が対立している状況下で「相手の思い通りにならない」という事を相手に学習させなければならない。

怒りをぶつけられ、怒りで返す。

そこでようやく、相手と自分は対等になるのである。

そういう意味で「喧嘩」は大切な意味を持っていると思っている。

必要なのは、怒りをベースにした反応を返す事が「あなたの生存にとってプラスになるかマイナスになるかの判断」だけである。

あらゆる怒りに正当性が無いという言説には上記の視点から違和感を感じる。